共有していること

誰かの当たり前は、私の当たり前ともあなたの当たり前とも違うということを、忘れてはならない。

情報や知識、方法論の差異に大いに違和感を感じた時には、少し距離を置く。

違和感の正体を知ろうとし、調べてみて、「そうか、こう思っていたのは私だけで、先方は違うことを優先していたんだ」とまずは理解を試みたい。

 

その結果、受け入れられない違いに不安や不満を感じたなら、そっと関係性を薄めてゆけばいい。そこにご縁はなかったものと考えるだけ。


そうとわかれば済むことでしかなく、共有していないものを理解した上で、お付き合いできるならそれでいい。


自分の正当性を主張して喧嘩したり、他方の持つ感覚を自分と異なるだけで打ちのめす必要はないと思う。そんなことにエネルギーを使うより、もっと明るい方へ歩んだ方がいい。


人や物に対して、理屈で説明できない違和感がある時、その正体がわからなくてもダメそうだな、という感覚が当たることがある。

関わり合うときの誠実さ、丁寧さに大きく開きがあるときにその感覚を持つことは多い。

 

私の場合、言葉や情報の誤用、誤字脱字の多さ、連絡方法の行き違い、意思決定のできない責任感のなさ、こういったものが窺える対象には、当たる違和感がしばしば発生する。

つまり「そこが大事なのにおざなりにするなんて」と感じるときの、「大事なポイント」が違うから。大事にするものが違う人と、距離を詰めるのは、とても疲れること。

その違和感をなかったように頑張ってみても、結局、悲しみや悔しさの増幅を伴う無意味な揺さぶりに惑わされるだけ。

 

自分を信じて、感覚を理屈で押さえないことも必要。それが自信というものか。